現在・過去・未来 この校風を永遠(とわ)に
数学科 梅原 弘文
『中大高ヒストリー』
仕事を終え 家路に着く人を掻き分け いつもの道を急ぐ。
あの頃時間は ダイヤモンドよりも貴重だった。
教室には 目を輝かせる 友がいた。
空腹に耐え 睡魔と闘う 友がいた。
(中 略)
飾らないありのままの姿で 互いを認め支えあい
大人への階段を登っていく。
今年で八十周年 世代を超えて受け継がれる この校風を胸に、
次の時代への第一歩を 踏み出すときが来ている。
この詩は、平成二十年に行われた八十周年記念式典で、演劇部に寸劇をしてもらった『中大高ヒストリー』の一部分です。ちょっとクサすぎるのでは…とも言われましたが、あの日、式典が行われた大学アリーナに来場された、高齢になられた諸先輩や来賓の皆様が、あのときの演劇部の熱演に、人目を憚る事なく涙を流していらっしゃいました。不遇だった青春時代の辛さや、去っていった友人たちを偲んで、感極まっていらしたのだと拝察します。私は、白灯会のお歴々とご一緒させて頂く機会が多いのでわかるのですが、今のこの母校の発展を、皆さん本当に心から喜んでいらっしゃいます。ただ、それよりも強烈に感じることは、文字通り「互いを認め支えあってきた…」という絆の太さです。
卒業生の皆様、ご無沙汰しております。お元気でしょうか、数学科の梅原(旧姓牧内)です。昨年度(平成二十四年度)で、この学校に赴任してから二十八年の歳月が流れました。冒頭にも書きましたが、本校は今年で八十五周年を迎えます。さらに、昼間定時制移行二十周年の節目も迎えました。まさに『光陰矢のごとし』という言葉を実感しています。時の流れは、移りゆく人の流れでもあります。のべおよそ千人の担任をしたこともそうですが、この学校で共に教鞭をとった先生方の移り変わりにも、過ぎ去った時間の長さを感じます。この学校に来た当時、専任教員は、鈴木先生、田口先生、田中先生、児玉先生の四人しかいませんでした(私を入れて五人です)。その頃は、夜間定時の四年制、午後六時始業(月~土まで一日四時限)の午後九時終業、運動部の練習はその後、午後十時まででした。当時の教員室は今の教員室を二分割して、道路とは反対側にありました(後に前の書道室となった場所です)。窓側から、鈴木先生、田口先生、児玉先生、私、田中先生というふうに五人の机が、縦に並んでいただけでした。鈴木先生は既にお亡くなりになりましたし、田口先生・児玉先生も退職され、田中先生が横浜山手に移られましたので(昨年の署名活動ではお世話になりました)、あの頃の専任は自分一人になってしまいました。今では二十一人の専任がいます。生徒数は一学年が160人、高校入試における偏差値は、中附・中杉と同じ70くらいです。中央大学への推薦率は、約95%になりました。教職員一同、これからもけして驕ることなく、一歩一歩確実に前に進んで行く所存です。
ところで、平成二十三年秋に高校専用のアリーナが完成しましたが(新2号館の地下1階にあります。是非一度ご覧ください)、今も昔も施設が十分とは言えず、クラブ活動には常に我慢が付きまとい、行事も天候によって左右されてしまいます。完全燃焼したくても、これだけで満足できるはずがないと思った人は、数え切れないほどいるはずです。しかしながら、卒業されたみなさんもそうだったように、現在の生徒たちも、そんな悪い条件の中でもやりくりして、行事を思いっきり楽しみ、またクラブ活動にも熱心に取り組み(成績には波がありますが)、一人一人が自分自身の可能性を、そして友人とで創る親睦の和を、より一層大きく育てることに手を抜こうとしていません。そして勉強も…(?☆★)。ここ数年、いろいろな学校で行事やクラブ活動が成立しなくなっていることを耳にします。だからこそ、今の生徒たちにも窺えるこの姿勢に、世代を超えて受け継がれる中大高校の校風(DNA)を感じます。
自分は今54才になりました。次女が成人式を終えています。人はいきなり大人になることはなく、自分も、大人と子供の境目を意識したことはありませんでした。夢をみているうちは子供で、夢をみれなくなったら大人ではさびしいですね。まあ大人と子供の定義なんて、所詮どうでもよいことです。それよりも、これから大切にしていこうと思っていることがひとつあります。それは、年齢(とし)をとるほどに頑固にならないことです。(他人の意見に耳を貸すことができること)私が知るかぎり、人はとかく真逆になっていくものです。自分もそうなることが多々あります。ですから残された時間、『臨機応変』を座右の銘として、今までと同じように、高校生と同じ夢(理想という名の)を追っていくつもりです。お近くにお寄りの際は、どうぞお気軽にお立ち寄りください。